- 田内 志文
- 2010-05-24 (月)
- 小説
9、
マヤは怪物の姿を見つけると、怪物もこちらを見ていることに気がつきました。まだちょっと怖かったのですが、思い切って手を振ってみることにしました。怪物は、手を振っている彼女に気がついたのか、さっと進路を変えて昨日と同じように窓へと近づいてきました。
「こんばんは、お嬢さん」怪物が言います。
「こんばんは」マヤも、今日はあまり怖くありません。こんなにていねいに挨拶する人が、悪い人なわけはないのです。「ええと……」
「いいよ、名前なんてありゃあしないんだ」獣が言います。「暁の獣なんて言われちゃいるがね」
「じゃあ、ケモノさんって呼ぶわ。アカツキノケモノなんて、ちょっと長すぎるもの」
「ケモノさんねえ……」暁の獣は、困ったように頭を掻きました。誰かに呼ばれることなんてまずありませんから、何だかばつが悪く、恥ずかしいような嬉しいような、なんとも言えない複雑な気持ちになってしまったのです。
「あたしはマヤよ」そう言うと、彼女はにっこりと笑いました。「ケモノさんは、いいなあ。空を自由に飛べて、ヴァイオリンも上手で」
「いいもんかい」獣は顔をしかめました。「飛べるって言ったってそりゃあ……」言いかけたところで口をつぐみます。歩くのも飛ぶのも同じで、どこにだって行けるじゃないかと言おうとしたのですが、ふと、マヤが部屋から出られないことに気がついたのでした。
「でも、飛べるだけでもすごいわ」マヤは、それを読んでいたかのように言いました。「あたしも、一度でいいから空を飛んでみたいなあ」
「そんなにいいもんじゃないさ」暁の獣は、ため息まじりに言いました。「さてさて、今日もそろそろヴァイオリンを弾かなくちゃいかん」
「あたし、ここで聴いてるわ」マヤはそう言うと、教会へと飛んでゆく暁の獣に微笑みかけました。
- Next: 一本橋ララバイ
- Prev: つまみ屋五郎兵衛 「好」の巻、その二