- 田内 志文
- 2010-05-24 (月)
- 小説
7、
マヤは、両手で双眼鏡を握りしめたまま、窓辺で身動きができなくなっていました。何しろ、おそるおそるレンズ越しに覗いた怪物の顔は、思っていたよりもずっと恐ろしかったのです。いきなり大写しになったその恐ろしい顔に、思わず「きゃっ!」と悲鳴を上げると、双眼鏡を顔からはなした勢いで、窓枠にぶつけてしまったのでした。
ヴァイオリンの音がぴたりと止まりました。きっと怪物に気づかれてしまったのに違い有りません。早く隠れなくちゃとは思うのですが、足がすくんでしまっていて、動くことができません。開いたカーテンの向こうで、怪物が首を動かすのが見えます。やがて怪物はしばらくじっとしたかと思うと、さっと飛び上がりました。そしてなんと、彼女の立っている窓めがけて、まっすぐに飛んで来たではありませんか。
マヤがどうすることもできないでいるうちに、怪物は家の壁にしがみつくように大きな手で屋根をつかんで止まると、ぎょろりと窓の中をのぞき込みました。顔だけでも、マヤの体くらいありそう。黒くて長いしっぽは、庭先に立つ桜の木の根元までだらりと垂れ下がっています。
「見てたのか?」獣は声を殺して言いました。低くうなるようなその声に、マヤは思わず身震いしてしまいました。
「は……はい……でも……だけど……」言葉を探しますが、何も出て来ません。
「人には言うな」獣が、燃え上がるような瞳で言いました。「そうしてくれりゃあ、俺はいい。面倒なのは好きじゃあなくってね。人に言って、俺を追い出そうと思っているんだったら——」
「そんなんじゃ……そんなんじゃないの……」マヤが恐る恐る言いました。どうやら怪物が自分を食べてしまったりする気がないようだと思うと、少しだけ勇気が出たのです。「あたし、あなたの弾くヴァイオリンがとても好きで……だから、いつも楽しみにしてたんです」
「俺のヴァイオリンが楽しみだって?」暁の獣が訊き返しました。そんなことを言われたことは、今まで一度もありません。「いつから知っていた?」
「一ヶ月前……」マヤは、上目遣いに獣の瞳を見つめながら答えました。「あたし、体が悪くて学校にも行けないから……だから……」
「へえ」と、獣が目を大きく見開きました。瞳の奥にちらちらと燃える炎が、ぱっと大きくなりました。「病気かい?」
「うん……もうずっと。家からも出られなくって、悪くなるばっかりで」
窓の向こうで、獣がちらりと東の空を見ました。
「いかんな。朝になる」獣がひとりごとのように言って、小さく舌打ちをします。「いいから、人には言うな。なあに、そうしてくれりゃあ俺はそれでいいよ」
怪物は目を細めました。マヤには、なんだか怪物が笑ったみたいに見えました。
「それじゃあまたな」そう言うと、怪物はさっと窓枠をはなれました。ごうっと音がして風が窓を揺らすと、もうその姿は見えなくなってしまっていました。
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