- 田内 志文
- 2010-05-24 (月)
- 小説
6、
暁の獣は、双眼鏡を握りしめたマヤが窓の向こうで息をのんでいることなど知らず、夜明けのヴァイオリンを弾き始めました。今日もまた同じメロディ。「夜明けのヴァイオリン」というくらいですからその音色さえあれば夜明けはやって来るわけで、別にどんなメロディを弾いてもかまわないのですが、暁の獣はいつも決まって同じ曲を弾きます。遙か昔はいろんな曲を弾いたりしたものですが、ずっと続けているうちに、何となく同じものばかり弾くようになっていたのでした。なぜかというと、もうずっと長いこと、暁の獣は同じような気分なのです。
獣はそっとヴァイオリンをかまえて大きなあごを乗せると、その恐ろしい姿からは想像もつかないほどそっと優しく、弦の上に弓を置きました。弓を持つ手を子猫をなでるみたいに柔らかく動かすと、寝静まった街にもの悲しいメロディが流れ出しました。獣は、ヴァイオリンを弾くのが好きでした。ヴァイオリンを弾いていると、胸の奥にぐるぐる渦巻いている苦しみや悲しみが、音に乗って体から出て行ってしまうような気持ちになるのです。
獣は額に皺を寄せ、ぐっと目を閉じて、首を振り、体を揺らしながらヴァイオリンを弾きます。やがて地平線の向こうに夜明けがやって来たら、またここから逃げ出さなくてはいけません。ヴァイオリンを弾いているわずかな時間だけが、暁の獣にとっては安らぎなのでした。
と、いきなり小さな悲鳴みたいな声が聞こえたかと思うと、続けて何かがぶつかるような鋭い物音がしました。大きな音というわけではありませんが、その音はまっすぐに闇を突っ切って、暁の獣の耳に飛び込んできました。暁の獣がヴァイオリンを弾く手を止めまると、音の飛んで来たほうにさっと顔を向けました。小さな窓が開かれており、細く開いたカーテンのすき間に小さな女の子の驚いた顔が見えます。
「こいつは面倒なことになったぞ」と、暁の獣は胸の中で言いました。
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