ネイル・ハート

  • 田内 志文
  • 2010-04-14 (水)
  • 小説

7、

 翌日からネイル・ハートは、学校に姿を見せなくなった。両親は、自分の部屋に閉じこもってしまった我が子のことを心配していたが、「きっとあの釘のことでなにかあったのにちがいない」と思うと、どう声をかけたものかすっかり分からなくなった。アイーダはただ気を揉みながらルーパスが仕事から帰ってくるのを待ち、夫が帰宅すると、ひとりで揉んでいた分の心配を怒りに変えて八つ当たりした。ルーパスはなんとか彼女をなだめようとしたが、彼が落ち着いていれば落ち着いているほど、アイーダはそれが気にくわなかった。彼女はまるで夫を挑発するかのように怒鳴り散らし、夫を平手で打った。

「もうあたし、どうにかなっちゃいそうよ!」

 ネイル・ハートは自分の部屋で、カーテンを引いた窓際に腰かけながら、それを聞いていた。自分のせいで、なにもかもおかしくなってしまった。その後、カナリヤはどうなってしまったのだろう。もう、学校になど行かせてもらえるはずもない。家にいても、両親の仲が悪くなるだけだ。そう思うと胸の奥からなにかどうしようもない感情があふれ出てきて、頭がチカチカした。ネイル・ハートはカーテンをぎゅっとつかむと、声を押し殺して泣いた。外に世界が広がっているのだと思うと、怖くてたまらなくなった。誰もが皆、自分のことを指さして責めているような気持ち。自分とすれちがう人たちが、みんな振り向いて陰口を叩いているような気持ち。もう、誰にも会いたくない。涙にまみれた自分の顔を乱暴に手のひらでこすった。

「誰もいないところに行ってしまおう……」

 ネイル・ハートは胸の中で言った。そして、その夜のうちに準備を整えると、町じゅうがすっかり寝静まるのを待ってからこっそり窓から抜け出し、壁に這わせてある配水管をつたって庭に降りた。足が地面に着き、ネイル・ハートは、誰にも気づかれていないことを確かめるために、息を殺して聞き耳を立てた。どこかから虫の声が聞こえているほかには、なにも聞こえなかった。彼は足音を忍ばせながら、門から歩き出た。門をくぐり抜けてから、自分の家を振り向いてみた。

 夜の暗がりの中ですっかり電気の消えた家は、なんだか自分の家のようには見えなかった。さっきまでいた、自分の部屋の窓を見上げてみる。その中には、これまでずっと使ってきたおもちゃや道具が、さっきまでと同じままに置いてあるはずだった。それを思うと胸が切なくてたまらなくなった。誰にも見つかっていないうちに引き返してしまいたいような気持ちが湧き、涙が目に浮かんだ。ネイル・ハートは目をぎゅっといちど閉じると開き、家を背にして歩き出した。「もう、戻ってこないのだ」と、胸の中で繰り返しながら。

 まるで夜空に突き刺さるようにして町はずれに立っている教会の塔を見上げながら通り過ぎ、ちょろちょろと音を立てながら流れる川の上を渡る。町の中心部を離れてしまうと、もうほとんど誰かの目に留まるような心配もなくなってきた。元々、彼の家は町はずれ近くにあったので、わざわざ、嫌な思い出の残っている場所を通らずに町から出られるのは、ありがたかった。

 ネイル・ハートは、町を一望できる丘の上まで歩くとそこで一度振り向き、町を見下ろした。ふたつかみっつ、灯りのついた窓が見えた。自分の家のあたりは、暗すぎてよく見えなかった。そこで眠っているにちがいないルーパスとアイーダのことを思うと、悲しい気持ちになった。だが、こうしてどんどん距離が離れてしまうと、「町を出て行こう」という決意も固まり、ついさっき窓の下で感じたような「やっぱり戻ろう」という気持ちは感じなかった。ただ、悲しかった。ネイル・ハートは思い切って町に背を向けると、丘の上を歩きはじめた。緩く起伏する丘の上をとぼとぼと歩く彼の頭上には、まん丸い月が淋しげな光を放ちながら浮かんでおり、その周りには、彼にはそ知らぬ顔をした星たちが、ちらちらと瞬いていた。

 彼は朝方まで歩き続けた。途中から、眠気と空腹感のせいでどうにかなってしまいそうに疲れていたが、その疲れや脚の痛みのおかげで、すこし気持ちが楽になるような気がした。途中から道は、それまでの平地から、森の中へと入っていた。ネイル・ハートはそのまま森を突っ切るつもりだったのだが、どこでどう道をまちがえたのか、いつの間にか細い獣道のようなところに入り込み、やがて、その道すらなくなった。戻って道を探してみようかとも思ったが、なんだか町のほうを向くのが怖くなり、彼は立ちふさがる枝や草を掻き分けながら進んでいった。

 ひとしきり歩くと、見たこともないような大木が姿を現した。まるで森の主のような堂々としたその姿。幹はあちこちに枝分かれしながら、まるで空全体を覆い尽くすかのように、ネイル・ハートの頭上を覆い隠している。下からでは、明けはじめているはずの空も見えなかった。幹は大きく曲がりくねり、あちこちで枝分かれを繰り返しながら広がっていた。何本にも枝分かれした幹が複雑に絡み合っているあたりに、寝転がっても大丈夫そうな場所があるのを、ネイル・ハートは見つけた。そこまで登ってみるとまさに隠れ家にはうってつけであるように、彼には思えた。

 ちょうど左右を細かい枝や幹が何本もかこっているおかげで、多少の寝返りを打っても、地面に落ちる心配はなさそうだった。彼は家から持ってきたビニールシートをバックパックから取り出すと敷き、その上に横になった。ひどい眠気がこみ上げてきて、彼は、吸い込まれるように眠りの底へと落ちていった。意識がすっかり眠りの海に飲み込まれる瞬間、ネイル・ハートは「ここで眠ってしまったら、目覚めたときにはもう、ぼくがいないことに父さんも母さんも気づいているんだ」とふと気づき、体を丸めた。

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