- 田内 志文
- 2010-04-14 (水)
- 小説
5、
ネイル・ハートと同じ学年に、カナリヤという女の子がいた。カナリヤはネイル・ハートよりすこし背が高く、きれいに手入れをした金髪を、いつもきらきらさせながら背筋を伸ばして歩いた。オレンジのシャツと深いブルーのベルボトムのジーンズを組み合わせるのが彼女のお気に入りで、それを身に着けているときの彼女は、全校集会でも、どこにいるかすぐに分かった。飛び抜けて可愛いというほどではなかったが、個性的なその顔は、むしろ魅力的だったと言っていい。実際、入学して以来彼女に惹かれている男子生徒は何人かいたし、実を言うと、ネイル・ハートもそのうちのひとりだった。
カナリヤは、誰とも付き合わない。そういう噂が流れはじめたのは、夏休みのすこし前からだった。その噂を聞くともなしに耳にすると、ネイル・ハートの胸はきりきりと痛んだ。授業中、窓際の自分の席から窓の外を見る振りをしながら、窓ガラスに映るカナリヤの姿をこっそりと見ながら、彼は胸の中で言う。
「ましてや、釘が刺さっているぼくとなんて遊んでくれるわけないじゃないか」
先生が、「ネイル君、ネイル・ハート君!」と大声で読んだ。驚いたネイル・ハートがはっと顔を上げると、先生は眉をひそめながら「どうかしましたか?」と訊ねてきた。気づけばネイル・ハートは、知らず知らずのうちに自分の額の釘を両手で押さえていたのだった。目の端に、自分のほうを振り向いているカナリヤの姿が見えた。
「いいえ、なんでもありません……」ネイル・ハートはつぶやくようにそう答えると、両手を釘の上からどかし、今度は本当に窓の外を眺めた。
校庭を、砂埃を巻き上げながら風が吹きすぎていく。校舎とは反対側の道路沿いに植えられた桜並木が、砂埃と同じ方向に揺れるのが見える。空はどこまでも深い青をしていて、真上にのぼればのぼるほど、その青さはますます濃く、深くなっていた。その空を突っ切るように、まっしろい飛行機雲を引きながら、はるか上空を飛行機が音もなく飛んでいた。ネイル・ハートは、自分もあんなふうに空さえ飛べればと思った。そうすればみんな、釘のことなんて忘れてくれるにちがいないのに。
ある日、とぼとぼと学校からひとりで帰るネイル・ハートを、後ろから誰かが呼び止めた。
「ねえ、待ってよ、ネイル・ハート君!」金属質な女の子の声だ。
その声に振り向き、ネイル・ハートは思わず息を飲んだ。彼に追いつこうと走ってくるのは、カナリヤだったのだ。
「ネイル・ハート君も、こっちの方角なの?」ようやく追いつくと、カナリヤはまだ弾んでいる息を整えながら言った。
「うん」ネイル・ハートは彼女のほうを見ずに、さり気なくうなずいた。
「あたしんちも、こっちなんだ」カナリヤが、深呼吸をして続ける。「なんで今まで気づかなかったかなあ。そしたら、一緒に帰れたのにね。そう思わない?」
「うん、そうだね」ネイル・ハートはまたひとつうなずくと、埃が目に入った振りをして、帽子を深くかぶりなおした。
「走ったから疲れちゃった」カナリヤは、歩きながらぐっと伸びをした。すると、鮮やかなオレンジ色のTシャツが広がるせいで、彼女までが大きくなったように見えた。「ねえ、ちょっと座っていこうよ。このあと、なにもないんでしょう?」
カナリヤはそう言うと、ちょうど通りかかっていたママタリ公園の、暗い色をした木のベンチを指さした。芝生の上に置かれ、さんさんと降り注ぐ日光を浴びたそのベンチは、手のひらを置いたときの温かさをネイル・ハートに連想させた。広々とした公園を目の前にして、そのベンチにカナリヤと座ったら、さぞかしいい気持ちにちがいないと、ネイル・ハートは胸をときめかせた。
「じゃあそうしよう」ネイル・ハートはちらりとカナリヤの顔を見た。
「うん」カナリヤが嬉しそうにうなずき、にっこり笑った。本当に、嬉しそうな笑顔だった。
ネイル・ハートがちょこんとベンチに腰かけると、その隣にカナリヤが座った。カナリヤはどさりとバックパックを芝生の上に放り出すと、またひとつ、大きく伸びをした。
「気持ちいい! こういう日に寄り道しないなんて嘘よね!」カナリヤはそう言いながら、同意を求めるかのように、ネイル・ハートの顔を覗き込んだ。
だがネイル・ハートは、なんと答えていいのか分からなかった。胸の中では、まさにカナリアの言うとおりだとしか思えなかったのだが、それを正直に言葉にしていいのか悪いのか、まったく判断がつかなかったのだ。入学して以来、自分の言いたいことを誰かに言えず、彼はずっと自分を納得させ続けてきた。そうしているうちに、すっかり気持ちを吐き出すことが苦手になってしまっていた。
「あー」ネイル・ハートは代わりにそう言うと、空を見上げて黙り込んだ。
だが、カナリヤはそんなネイル・ハートの気持ちに気づくはずもなかった。彼女が彼と同じように空を見上げると、肩から前にかかっていた髪の毛が背中のほうに滑り落ち、温かく公園全体を包み込んでいる陽光の中で、跳ねるように踊りながら光を撒きちらした。ネイル・ハートはしばらく空を見上げると、軽く目を閉じた。そうするとまぶたが赤く透けて見えるのが、彼は昔から好きだった。カナリヤが座っている左側の二の腕がほんのりと温かく感じられ、彼の心臓が大きく脈打った。
隣に大好きな女の子がいて、彼女が自分と同じように黙ったまま、自分と同じように空を見上げ、自分と同じように気持ちよさを感じてくれている。そう思うと、これまでのつらい思いがぜんぶ報われたような気になり、体じゅうに流れていた緊張の血液が、ぜんぶ蒸発してしまったようだった。思わずごくりと唾を飲み込んでから、首が伸びているせいでよけいにその様子が目立ってしまったのが、ものすごく恥ずかしくなった。だが幸いにもカナリヤは、気づいていないようだった。ネイル・ハートは心の底からほっとして、ため息をついた。その横でカナリヤも、気持ちよさそうにため息をついた。
話したいことなど、なにも見つからなかった。ネイル・ハートの頭の中には、「なにかしゃべらなくちゃ」という気持ちがぐるぐると、洗濯機の中で回っているお気に入りの靴下みたいに回り続けていた。「なにかしゃべらなくちゃ」と思えば思うほど、「なにかしゃべらなくちゃ」という以外のことは、なにも考えられなくなった。そうして「なにかしゃべらなくちゃ」を頭の中で繰り返しながら、彼女が話しかけてきてくれるのを、彼は待ち続けた。
「ねえ、訊いてもいい?」しばらくしてカナリヤがそう話しかけてくると、ネイル・ハートの頭の中で洗濯機の電源がぶちりと切れ、靴下の模様や縫い目のひとつひとつまでもがくっきり見えるような気になった。
「うん、いいよ」と、ネイル・ハートは答えた。いったいどんなことを訊いてもらえるのかと、わくわくした。
「ネイル・ハート君って、釘が刺さってるじゃない?」カナリヤは、無邪気な笑顔でそう訊いてきた。ネイル・ハートの胸がきゅっと痛み、とたんに、学校にいるときのような、いつもの気持ちに戻った。カナリヤは、そんなことは知らない無邪気な笑顔で続ける。「それ、いつから刺さってるの?」
「生まれたときから……」ネイル・ハートは、ぼそぼそと答えながら、ベンチの下で足をぶらぶらさせた。
「それ、痛くないの?」
「痛くないよ」ネイル・ハートは、宙に視線を漂わせながら言った。「ねえ、そろそろ帰ろうよ」
「えー、もう帰るの?」カナリヤは、残念そうな顔で言った。「じゃあ、これあたしの携帯。教えてあげるから、いつでも電話して」
その夜、ネイル・ハートは食事も喉を通らない思いだった。「それ、痛くないの?」というカナリヤの声が、どうしても忘れられなかった。そして、あの無邪気な笑顔。彼女もやはり、自分のことを分かってくれない。それどころか、みんなと同じように好奇の目で見ているに過ぎないのだ。そう思うと、自分が惨めでたまらなくなった。左の二の腕のあたりがかゆくて、彼はそこだけを何度も掻いたり、ぴしゃりと平手で叩いたりした。だが、やりきれない気持ちだけは、どうにも消えてくれなかった。同じものを見て、気持ちよくなり、理解してもらえたと思ったのに。ネイル・ハートは悔しくて悔しくて、いてもたってもいられなくなった。普通ならば、「明日を待って、もう関わらなければそれで済むさ」と思えたが、カナリヤの笑顔や髪の毛や歩く姿を思い浮かべると、どうしてもそうは割り切れなかった。ネイル・ハートはこっそりと階段を降りると、彼女の携帯電話に電話をかけた。
「こんばんは」ネイル・ハートが言った。
「もしかして、ネイル・ハート君? もうかけてきてくれたの?」
彼にはそれが、一瞬皮肉に聞こえた。電話番号を貰ってすぐかけてしまったことが恥ずかしくなり、自分のことを最低だとしか思えなくなった。ネイル・ハートは首をぶるぶると横に振りながら、いつでも電話して、と言った彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
「今から、ママタリ公園に来られないかな」彼はうかがうような声で言った。
「今から? ちょっと待って」彼女が言い、ドアがきしむような音がして、次に、ドアがそっと閉まる音がした。「だいじょうぶ。すぐ行くから、すぐ来てね」カナリヤがひそひそ声で言った。
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