- 田内 志文
- 2010-04-14 (水)
- 小説
10、
町に入ったネイル・ハートは、きょろきょろと人目を避けながら、あの日と同じ道を逆に歩いた。ちょろちょろと音を立てながら流れる川の上を渡り、教会の塔を見上げながら通り過ぎ、自分の家を目指して。なにもかもがみな、なつかしかった。あの日歩いたときと同じ気持ちが地面から足をつたってのぼってくるようだった。そして、最後の角を曲がると、すぐ右手にネイル・ハートの家が見えた。出ていったあの日のまま、電気の消えた彼の部屋は、ずっとネイル・ハートを待ってでもいるかのように、ひっそりと静まり返っている。
門の陰に隠れるようにしながら家を覗き込むと、リビングには灯りがついていた。中からかちゃかちゃと食器の音と、くぐもった話し声が聞こえてきている。ときおり、カーテンにルーパスとアイーダの影がうつるたびに、ネイル・ハートは門の陰に身を隠した。心臓は、まるで破裂してしまうような勢いで打っていた。今さら帰ったらどんなに怒られるだろうと思うと、泣き出したいような気持ちになった。もしかしたらふたりは、釘の刺さった変な子供がいなくなったせいで、気持ちよく暮らしているのかもしれないとすら思えた。彼はアリスを抱き上げると、頬をすり寄せた。アリスがひと声鳴き、静まり返った路地に、その声が響いた。ネイル・ハートはぎょっとして、あわてて彼女の口を手でふさいだ。どうやら誰も気づかなかったようだった。ネイル・ハートはほっと胸を撫で下ろしたが、おかげで、すこし勇気が出たような気がした。
「よし、今ので気づかれたことにしてしまえ」
ネイル・ハートは思い切って門の中に脚を踏み入れると、玄関への道に敷き詰められた砂利を思い切り踏んだ。
玄関のドアの前に立ち、呼び鈴に指をかけたところで、せっかく振り絞った彼の勇気は、またしぼみはじめた。ボタンへと伸ばした指を、進めることも引っ込めることもできなくなってしまった。こんな姿を誰かに見られたら、怪しがられてしまう。ネイル・ハートはどんどん焦りはじめた。押そうか。やめようか。喉の奥にすっぱいものが込み上げてきて、目の前がかすむようだった。
「えい」彼は小声で自分に言った。「どうせ押すんだ。今押しても、後で押しても、どうせ同じことさ」
それを三度か四度繰り返してから、ようやく彼は、恐る恐る呼び鈴を押した。なんとも懐かしい聞き慣れた呼び鈴のベルの音が、ドアの向こうから聞こえた。それに続いて、「はーい」と返事をするアイーダの声と、玄関へと急ぎ足でやってくる足音。彼は、一生分の勇気を振り絞るような思いで、ドアの前に立ちつくした。ドアのノブが回り、アイーダが顔を覗かせた。彼女は、大人の顔の高さに目をやり、そこに誰もいないのを知ると、今度は子供の顔の高さを見た。
「あっ!」彼女が口に手をやり、半開きのドアがゆっくりと閉じはじめ、また彼女がドアを押さえた。「ネイル!」
ネイル・ハートは、ただじっと立っていた。アイーダは、すっかり汚れ果てた息子の姿に、すっかり言葉を失っていた。逆光になっているせいでネイル・ハートから彼女の顔はよく見えなかったが、彼女の声、彼女の匂いにちがいなかった。ネイル・ハートはその気まずさを紛らわすために、久しぶりに嗅いだ自分の家の匂いが、まるでよその家の匂いみたいだと考えた。とにかく、早く次の言葉をアイーダに口にしてほしかった。
「ルーパス! ルーパス!」アイーダがリビングのほうを振り向き、夫を呼んだ。「ネイルよ、ネイルが帰ってきたのよ!」
「なんだって!」リビングのドアの向こうからルーパスの声が聞こえ、荒々しい足音とともに、ルーパスが出てきた。ルーパスは玄関の電気をつけると、そこに立っている我が子を見て「ネイル!」と名前を呼んだきり、絶句した。
絶句したのは、ネイル・ハートもまた同じだった。それは、両親の額に、深々と大きな釘が刺さっていたからだった。
「ネイル、どこに行っていたの……」アイーダはドアから手を離してひざまずくと、我が子の体をきつく抱きしめた。ルーパスは、閉まりかけたドアとアイーダの間に体を割り込ませると、そのふたりを両腕で抱きしめた。
「お前、今までいったいどこにいたんだ。父さんも母さんも、心配したんだぞ」
その言葉に、ネイル・ハートの目から涙があふれ出した。彼は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度もしゃくり上げるように繰り返しながら、アイーダの袖にこすりつけて涙を拭いた。両親も、その息子の嗚咽を聞いているだけで、涙が止まらなくなった。三人はひとしきり泣いてから、ドアを閉め、リビングに入った。その後ろから、アリスがひょこひょことついてきた。
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