つまみ屋五郎兵衛 「芯」の巻、その四

  • 明川 哲也
  • 2010-03-07 (日)
  • 小説

「芯」の巻、その四

 

 ヨウスケがつまみ屋「五郎兵衛」にふらりと入ってきたのは、もうかなり遅い時間になってからだった。ちょうどリフォーム屋の横山さんと本屋の大西さんが言い争いをしている最中で、他のお客の手前どうやめてもらおうかと五郎兵衛が算段をしているところだった。

「おう、喜楽亭」
「なんだ。そっちはもう閉めたのか?」

 ヨウスケが久々に顔を見せたというのに、互いの揚げ足取りに熱中している常連二人から出た言葉はそれだけだった。「だからよう」と、また元のうるさい喧嘩相手に戻ってしまう。

 厨房の五郎兵衛に向かってヨウスケは軽く頭をさげた。五郎兵衛は目配せをし、カウンター席にヨウスケを座らせた。

「今日、昼間来てくれたみたいで・・・どうもありがとう」

 五郎兵衛はなにも言わずに、例の日本人離れした、パパイアの香りでも漂いそうな笑顔をヨウスケに向けた。

「うちのおやっさん、来た?」

 うなずき、五郎兵衛はキャベツの芯炒めをヨウスケに差し出した。                                                                    

「これが証明じゃねえか。魚偏に弱いでイワシだ」

 テーブル席では相変わらず、リフォーム屋と本屋の不毛で呑気な闘いが続いていた。横山さんは鰯の唐揚げを指でつまみ上げ、大西さんの顔に一度近付けてからそれを自分の口に放り込んだ。

「漢字ってのは、全部そこに意味が描かれてんだよ。アートなんだ」

 言われた大西さんは鰯が近付いてきた時に口を開けてしまったのが悔しいらしく、焼酎を一気に呷った。

「だから漢字を見ればすべての謎が解ける」

「その思い込みが怪しいんだよ」

「なんだよ。弱いからイワシだ。背が青けりゃ魚偏に青でサバだ。文句あっか?」

「弱いにしても、生き物として弱いのか? それとも食物連鎖の下の方にいて、他の魚の餌食になっちゃうから弱いのか」

「ぐだぐだ言うな、同じことじゃねえか」

「いや、それは違う。弱いというのは相対的なことだろう。どちらから見るかによって鰯のイメージもずいぶん変わる」

「なんだ? どちらからって」

「鰯に食われるプランクトンにしてみれば、決して弱い相手じゃないだろう」

「プラクントンまで持ち出すな!」

 勘弁してくれという顔で、他の客が二人のテーブルを覗きこんでいる。

「どうしたの、あの二人?」

 キャベツの芯で生ビールを飲みながら、ヨウスケがそっと訊いてきた。五郎兵衛は首を横にひねり、これまたそっと答えた。

「漢字に答えが書かれているか、書かれていないか」

 難しいことを・・・と口のなかでつぶやき、ヨウスケは店を眺め回した。そしてホワイトボードに目を留めた。

「これ、芯おどるって言うんだ?」

「うん」

「俺が持ってきたキャベツの芯?」

「そ」

「味噌と唐辛子で炒めた?」

「そ」

 ふーん、と受けながらヨウスケの目が光った。やっぱり料理人だと五郎兵衛は思った。扉を開けて入ってきた時のヨウスケは、それこそ捨てられたキャベツのように萎びて見えた。ところがその野菜くずから転じた一品を味わったことで表情が変わった。

「こうして辛く炒めるなら、味噌もいいけど、ナンプラーとかでも合いそう」

「うん」

「捨てるところないんだよね。野菜って」

「うん」

 ヨウスケは箸でつまんだキャベツの芯をしげしげと見ている。

 そこへ「あー、分からず屋と飲むのは大変だ」と呻きながら、大西さんが立ち上がってやってきた。五郎兵衛にポッドを差し出し、焼酎を割るお湯を入れろと催促する。

「なあ、五郎兵衛。なんで芯おどるのおどるって字は漢字じゃないんだ?」

 ああ、それね・・・。

 五郎兵衛はどう返事をするべきか迷った。

「おどるって、二つあるだろう。ダンスの方の踊ると、心がわくわくする時の躍る」

 本屋が指で宙に文字を書きながらこれ見よがしに言うと、テーブル席でリフォーム屋が声をあげる。

「そんなものお前、ダンスの方の踊るは手足使って踊ってナンボなんだからよ、もう一個の難しい方の躍るに決まってるだろうがっ。芯だぞ、芯。キャベツの芯がダンスできるかよ」

 まったく、どうしてこの二人は毎回こうなんだろう。

 五郎兵衛は苦笑しつつ、厨房の棚から国語辞典を取り出して見せた。

「調べたことは調べたよ。両方とも、わくわくして楽しい字。それに、心のことでもこのダンスの踊るを使う時があるみたい。よく考えて、どっちかわからなくなって、だからひらがなにした」

「な、漢字って難しいよな。そうそう明確なもんじゃないんだ。たった一文字で人生の謎が解けてたまるかい」

 本屋の大西さんは満足した顔になり、五郎兵衛の肩をぽんと叩いた。

「あ、なんだ、五郎兵衛。このインチキインテリの肩を持つのか!」

 リフォーム屋の声がさらに大きくなった。奥の席でカップルがうんざりした顔になっている。そろそろ静かにしてもらいたい。

「二人ともちょっとうるさいよ。小さく喋ってくれるなら、新しいつまみを出す。どう? 試し食いしてもらうのだからお金いらない」

 言われちゃった、という顔に大西さんはなった。横山さんは肩をすくめ、「それが目当てってわけじゃないんだけどな」と囁くような声になった。                                                                                   

 ウーさんの五家宝菜で仕入れた青物。五郎兵衛は冷蔵庫からそれを出した。長さ五十センチほどに切られた緑色の野菜だった。まるで柳の葉のように、柔らかな茎から長細い葉が伸びている。五郎兵衛はそれをいきなりぶつ切りにするようなことはせず、茎をそのまま残すようにして包丁で葉を払い、皿に盛った。ひとつの野菜から葉と茎の部分を区別して取り分けたことになる。

 ヨウスケは黙ってその作業を見ている。

 目で記憶しようとしているな・・・調味料を用意しながら、五郎兵衛にはそれがよくわかった。だが、ヨウスケは商売敵というわけではなかった。それにオープンキッチンの五郎兵衛は一切を隠さない。

 見るなら見て覚えろ。五郎兵衛はそっと思った。これから作る料理はヨウスケにとっても大事な一品になる。

 中華鍋にごま油を垂らし、強火で熱する。ふわっと煙が見えたところで薄く切ったニンニクとしょうが、四つ割りにした鶏の砂肝を放りこむ。小気味いい音をさせて五郎兵衛はそれを炒める。

「いい匂いだな」

 リフォーム屋が立ち上がって見ているが、リズムの出てきた五郎兵衛は目を送りさえしない。中華鍋の熱気のなかへ野菜の茎の部分を入れ、ナンプラーと酒を振りかけ、すべてが絡むように木べらを手際良く扱う。さらに時間差を作って葉の部分を加え、唐辛子を振ってどんどん炒めていく。葉が形を失い、茎ばかりがてらっと光って見えるようになったところで鍋を火から離す。並べた皿に盛っていく。油でいっそう鮮やかになった緑と、炒められたニンニクと魚醤の香りがキッチンの周りの客たちを惹きつけている。

「ヨウスケ、手伝って」

 真剣な顔になっていたヨウスケが、五郎兵衛に言われて目や頰の力を抜いた。はい、と返事をして湯気のたつ皿をテーブル席に配り始めた。

「店主からのサービスです」

 五郎兵衛はもちろん、うるさい常連客にだけに新しいつまみを作ったのではなかった。つまみ屋五郎兵衛は常に新しいつまみを作る。そして居合わせた客全員に振る舞う。反応が良ければそのつまみは生き残る。だめなら一度で消える。

「ああ、うまい!」

 帰ろうとしていたカップルの男性客が歓声をあげた。常連の二人も、うんうんと激しくうなずきながら口を動かしている。

「たまんねえな。歯触りがよくてよ、また酒が進みやがる」

「シャキシャキしているのに柔らかい。そこへ砂肝の食感だ。歯も舌も喜ぶね。こう、パアッと・・・あれ、ところでこれ、なんという野菜?」

 口からはふっと湯気を吐きながら大西さんが尋ねてきた。

 箸で一口入れるなり、首を左右に振って満足げな顔になったヨウスケも、「そう、それ」と指を差してきた。

「これ、中国の野菜ね。トンツァイと言う」

「トンツァイ?」

 首をひねるヨウスケに見えるよう、五郎兵衛はキッチンからホワイトボードに手を伸ばし、「通菜」と書いた。

「こう書くみたい。意味はわからないけど」

「トンツァイ・・・聞いたことないな。でも、うまいから覚えておこう」

 大西さんはしみじみとした顔でもう一口を食べ、焼酎で流し込んだ。
 ヨウスケは茎の部分を箸でつまんで見ている。

「これ、茎のなかが空洞になってる。きっと、だから独特の歯ごたえがあるんだ。空気の通りがあるから通菜って言うのかな?」

「そうかもね」

 五郎兵衛は自らも試食をし、うん、と納得した。

「なんてタイトルにすんだ? これ」

 横山さんにいきなり言われ、五郎兵衛は首を横にひねった。

「そりゃ、決まっているだろう」

 大西さんが立ち上がった。

「通菜で砂肝踊ると躍るの両方あんのよ」

「だめだ、そんなの」

 また言い争いにならなければいいと五郎兵衛は思ったが、常連二人は以降大人しく飲んだ。そして定時の閉店時間を少し越えたところで仲良く並んで帰っていった。                                                                             

 店の後片付けをヨウスケが手伝ってくれた。

 二人とも特に語らず、静かに皿を洗った。

 だが、皿を拭き始めたところで、ヨウスケがぽつりと訊いてきた。

「うちのおやっさん、なんか言ってた?」

 五郎兵衛はうなずく。

「俺のこと、ひどく言ったでしょ。芯のない人間だって」

 五郎兵衛は困った顔になったが、嘘を伝えるわけにもいかず、「まあね」と答えた。

「実は今日・・・新しい店を探そうと思って。求人募集で知っためぼしいところを見て歩いたんだけれど、今ひとつぱっとしたところがなくて、結局、ぶらぶら歩いただけで終っちゃった」

「それは・・・やめた方がいい」

 五郎兵衛は皿を拭く手を止めた。

「喜楽亭さん、いいことは言わなかったけど・・・寂しかったんだ。だからここに来た。早く帰ってこいっていう意味で、それでクビだなんて、言ったんだと思うよ」

「クビ? とっくにクビになっているよ、俺は」

「違う。これ以上休むようならクビだって。今日謝りにいけば大丈夫」

「こんなに休んでいて、今さら・・・」

 唇をぎゅっと噛んだまま、ヨウスケは五郎兵衛の顔を見る。

「きっとまたひどく怒鳴られるし、俺はどうせなにをやってもうまくいかないし」

 心細げな表情になったヨウスケに対し、五郎兵衛はいつもの無垢な目尻で笑いかけた。そして珍しく、自分の意志だけははっきりと伝えた。

「通菜食べたんだ。そこは通らなければだめだよ。いっしょに喜楽亭まで行ってあげるから」

 ヨウスケは皿を置き、両手を胸の前で組んだ。その指先に力が入っているのが五郎兵衛の目にもはっきりとわかった。

「どうせ、相手にされないよ」

「ただ、怒られるだけ。ただ、謝るだけ。死ぬわけじゃない」

「でも・・・」

「そこを通れば、また明日から厨房に立てるよ」

 すこし間があって、ヨウスケはようやく組んだ手を解いた。そして黙ったままでゆっくりとうなずいてみせた。                                                                                                    

 店を閉め、五郎兵衛とヨウスケは喜楽亭の方に向かって歩き始めた。ものの数分の距離だったが、角を一度曲がらなければいけないため、喜楽亭の灯りがまだついているかどうかはわからなかった。閉店時間を過ぎても、だいたいこの時間くらいまで主人は店で飲んでいる。主人の方で妙な決心を固めてしまう前だといいのだがと、五郎兵衛は思った。

「芯がないって、どういうこと?」

 無言で歩いているヨウスケに向かって、五郎兵衛はそう訊いた。

 ヨウスケは頭を振り、「実際、俺そうだから」と足取りが重い。

「芯・・・なんだろうね。芯、なに?」

 五郎兵衛が問うと、ヨウスケは大きく息を吸いこみ、「それがある人はさくさく行動できるんだよ。ぶれないんだ。迷わないんだ」とつぶやいた。

「そうかな」

「そうだよ」

 五郎兵衛は歩を進めながら言った。

「今日の通菜ね」

「トンツァイ?」

「あれ、中国の一部では通菜と言うんだけど、本当はもっと有名な言い方があるよ。日本でもその呼び方をみんなしている」

「え、なに?」

 ヨウスケが足を止めた。五郎兵衛も止まった。

「空芯菜」

「クウシンサイ? 知っているよ。どこのスーパーだって売っている」

「そう。有名だよ。茎に芯がなくて空っぽだから空芯菜」

 うなずきながら、「へーっ」とヨウスケが唸った。

「たしかに芯はなかったけど、でもあの歯触り」

「だから、芯という字は不思議」

 そこでちょうど曲がり角になった。

 遠くに喜楽亭の灯りがうっすらと見える。店を閉じた後、主人一人でぽつんとしている時特有の灯りだった。

「あ、おやっさん、いる」

「うん」

「五郎兵衛・・・ここまででいいよ」

「そ?」

「どうもありがとう。ここから先、俺一人で行くから」

「そ」

「おいしいつまみと・・・それからここまで付き合ってくれて、ありがとう」

「うん。じゃあ」

 五郎兵衛はヨウスケの腕をぽんと叩いた。そして踵を返して、自分の店の方へと歩き始めた。ヨウスケが喜楽亭に迎え入れられるかどうか、陰で見ていようかという気持ちも少しはあった。ひどく怒鳴られて水でもかけられるようなことがあれば、間に入らなければいけないような気もしたのだ。だが、そんなことはあるはずがないと思った。その自信があったからこそ、来た道を戻り始めたのだ。

 山手線の終電車だと思われる列車の音が聞こえてくる。

 ここから先夜明けまでは、東京に内側と外側の境界がない時間帯だ。もし山手線の内側が東京の芯なら、それは数時間にわたって消滅する。

 確実なことは・・・と、五郎兵衛は考えた。考えながら足もとを見た。

 暗い道を一歩ずつ進んでいく自分の足。

 信じられるのはそれだけだった。

 この足は、飛び交う砲弾の下を通り抜けてきた。死を覚悟した脱出行も、この足があったからできたことだ。異国に来て、一から学ぶ言語をもって生活を始めた時、それでもなんとかなると思えたのはこの足が前へ進むことを知っていたからだった。

 ただそれだけだった。

 芯など自分にはなかった。

 ただ、通ってきただけなのだ。

 どこかで、熱燗の一杯でも飲もうかと五郎兵衛は思った。そしてまた、なにか新しいつまみを考えよう。

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