つまみ屋五郎兵衛 「芯」の巻、その一

  • 明川 哲也
  • 2010-02-01 (月)
  • 小説

 「芯」の巻、その一

 言葉数のすくない男はめっきり姿を消した。しかも極端にとなれば、東京中を探したってそういるものではない。
 だがここに一人、できればひとことも喋りたくないという思いで厨房に立つ男がいた。名前を五郎兵衛という。
 
 五郎兵衛は「五郎兵衛」という店をやっている。昼は定食や丼ものを作り、夜は酒の肴に精を出す。オープンキッチンとあって、料理を作る五郎兵衛は客から丸見えだ。使用人がいないので、客は五郎兵衛に直接オーダーをする。
「親子丼」
「はい」
 昼間はこれですむ。
 しかし夜はそういうわけにはいかない。酒が入れば、客は五郎兵衛に話しかける。
「不況だね。たまんないよ。ねえ」
「はい」
「兄さんのところはどうだい? 客足はやっぱり減ったかい?」
「はい」
「でも、値段のせいかいつ来ても満員だね。本当は儲かってるんじゃないの?」
「はい」
「なんだよ、あんた」
「はい」
 
 客はぎょっとするし、この男は自分を嫌っているのではないかとつい勘ぐってしまう。ところが口数とは正反対の、日本人離れした豊饒な微笑みが五郎兵衛にはあった。目尻のしわまで無垢が跡をつけたようなその顔を向けられると、客は温かい汁物をひとつ余分にもらったような気分になる。まあ、いいかということになる。なにか理由があるのだろうと。
 
 五郎兵衛にはたしかに理由があった。
 笑顔が日本人離れしているのは、もともと彼が日本人ではなかったからだ。難民認定を受けて日本に在留、その後に帰化するまで、彼の国籍はカンボジアであった。
 この国の地を踏んでもう二十年になる。十代半ばでやってきたからそれなりの歳だ。日本語学校には通ったが、言葉は今でもおぼつかない。テレビでニュースを見ても、半分はなにを言っているのかわからない。できれば喋りたくないし、話しかけられたくもない。自分にやれるのは料理、そして笑顔を向けることだけだと心得ている。

 五郎兵衛は冷蔵庫の野菜室から、レジ袋で包んだキャベツの芯を取り出した。全部で六本。仕込みとしては足りない。今日の客には間に合うだろうが、明日の分は出そうになかった。ヨウスケはなにをやっているのだろう。五郎兵衛は「喜楽亭」のコックの顔を思い浮かべた。そういえばここのところ、彼は姿を現さない。
 まな板にキャベツの芯を載せる。縦に構え、包丁で半分に割る。カット面を底にして芯を固定し、端から刻んでいく。平たくはなるが、幅はできれば針しょうがよりも細くという思いで次々と刻んでいく。細くなればなるほど気を抱え込む。ものの十分で、刻まれたキャベツの芯は丼二つ分にもなった。
 フライパンにごま油を入れて熱する。五郎兵衛はそこに刻まれた芯を放り込む。芯はへなへなと炒められていく。酒で溶いた仙台味噌と一味唐辛子を振りかける。ジャーッ、とフライパンは小気味良い音に震え、揮発した酒の香りが五郎兵衛の鼻を包む。かさが減っていく芯に木べらを絡ませ、味噌だれが満遍なく回るようフライパンも踊らす。
 さえ箸で二、三本を取る。湯気をふっと吹き、あつあつのまま口に入れる。
 うん、と五郎兵衛はうなずいた。
 歯触りが良い。熱を通したことで、味噌と酒と一味が相性良く絡まり合っている。それでいてキャベツの芯の香りは残っている。うっすらとだが、かたくなに。
 春の香りだ。
 
 炒めた芯を五郎兵衛は丼にあけた。
 今夜の突き出しになる。
 ただで仕入れたものだから、金はとらない。
 「突き出し無料」と店の壁にも張り出している。
 キャベツはもちろん自分の店でも使う。だが、たいてい五郎兵衛は芯ごと料理に使ってしまう。逆に言えば、こんなふうに芯だけを炒めることもない。喜楽亭のヨウスケが「使う?」と持ってくるまでは芯で一品を作ろうという発想がなかった。
 
 湯気をたてている丼にラップをする。
 ここから先がいつも、五郎兵衛の思案のしどころである。
 基本的なメニューはテーブルやカウンター席に置いてあるが、突き出しのように日替わりのものはホワイトボードに記すことになっている。
 こうして芯を炒めた時は、「きゃべつのしん」と率直に書いてきた。だが、これが問題で客たちから色々と言われてしまう。
「そりゃキャベツの芯には違いないだろうが、料理なんだからなんか名前をつけなよ」
 本屋の大西さんはそう言って、「しんしんしんなんてどうだ?」と周囲の客の賛同を得ようとした。
「なんだい、それ?」とあからさまにしかめ面をしたのはリフォーム屋の横山さんで、「切った芯ばかり炒めてんだから、芯芯芯だろ」と言われても、「わけわかんねえよ」と首を横にひねった。「なら、妙案があんのかよ」と逆に迫られ、横山さんは「うーん」とうなった後、「芯そこ喜んでます」といっそうわからないことを言った。
 
 こういう時だ。
 日本語も日本人もはるか遠いところにあると、いつになっても越えられない国境を五郎兵衛が思うのは。
 キッチンテーブルにホワイトボードを置き、五郎兵衛はマジックで「しん」と書いた。
 いっそのこと、これがシンプルで良いのではないかと思う。
 でも、きっと、またやいのやいの言われるだろうな。
 五郎兵衛は溜め息をつき、今度は漢字で書いてみようと思った。厨房の棚から辞書を出す。それを見ながら「芯」と書く。
 
 五郎兵衛は漢字が苦手だ。なんとか自分の名前だけは書けるようになったが、今でも大半はひらがなですませてしまう。おまけに字が下手だ。自分で自分を慰めようとしても、これだけは無理だと認めてしまう。
 「芯」という文字。
 じっと見ているうちに、なんだか文字そのものが生き物のように思えてきた。「心」の部分が脚のように動きだし、草むらをゆっくりと歩いていくような・・・。
 まさか、とつばを飲み、五郎兵衛はもう一度「芯」を見た。
 この文字を作った人はいったいなにを考えていたのだろう。そう思ったところで、やはり「心」の部分がゆらゆらと歩き始めた。
 
 ということはつまり、芯はキャベツや草木ばかりではなく、足で歩く動物や他の生き物にもあるのだろうか。
 五郎兵衛は腕を組み、「芯」の次にひらがなで「おどる」と書いた。
 「芯おどる」
 全然違うような気がする。きっと本屋やリフォーム屋には今夜もからかわれる。だいたい、おどるって・・・動詞だよ。変だ、これは。
 日本語学校に通っている頃なら、あり得ない命名だと五郎兵衛は思った。でも、これ以上考えると、もっと深みにはまっていくような気がした。これでいいやと諦めをつけ、五郎兵衛はその後に「0円」と書いた。
 
 喜楽亭の主人が入ってきたのは、このホワイトボードをカウンター席よりの壁にかけた時だった。
「おう、五郎兵衛。キャベツの芯とか、芽が出ちゃったにんにくな」
 主人は提げていたレジ袋を五郎兵衛に突き出した。
 どうも、と受け取る五郎兵衛。
「ヨウスケの野郎、具合が悪くてな。休んでんだ、ここんところ」
 え? と五郎兵衛は主人の顔を覗き込んだ。
「どうもなあ・・・まったくよう」
 主人は言い淀みながらも、指先で自分の胸のあたりをとんとんと突ついた。

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